瀬戸田港〜北町〜大元町〜向上寺三重塔
瀬戸田港はこんな感じ。
桟橋からみえる景色が「瀬戸田港海岸」
「住吉神社 石灯籠」
文化9年(1814年)に建立された、高さ役4mの石灯籠。
その奥(この写真では)にある住吉神社は今では本殿のみとなってます。
まず瀬戸田港から出て正面のすぐのところにあるのがこの石灯籠。
「瀬戸田港海岸」
ちょっと自分がとった写真は空の配分が多すぎましたね。
このオブジェ「瀬戸田港海岸」は港から出て左側の海岸沿いにあります。
瀬戸田の道は江戸時代の町割りの関係で辻違いの4つ角になっていて、
これは別名「あてまげの辻」とも呼ばれ、犯人を追跡しやすいように工夫された道である。
(瀬戸田町史 地理編より)
言われてみるとそういえばちゃんと交差してる道、この辺にあったっけ?と
それにしてもいつのまに護岸工事されたんだろう・・
平山画伯のスケッチにもこのような船がワンサカ出てきますよね。
亀の首
どうして亀の首と呼ばれるのか。
それを知りたい方は町役場の伝説を読んでみてくださいネ。
最後には笑えるオチが・・・。
高根大橋をくぐると亀の首伝説のある岩場にきます。
昔はここでよく遊んだのですが、最近の子供達はどうなんだろう?
ちなみに写真は干潮時で満潮になるとお地蔵さんの足下まで海になります。
「私の実家のある通り」
高根大橋をくぐる手前で右手の道に入っていくとあります。
場所はここMapfanで
実はコイツも平山さん家のご近所さん。
「わたしの実家のある通り」を通っていくと更に小さな上り坂への分岐道
が現れるので登ります。
場所はここです。
祠(?)の右下には小さく「みつまさ」の落書きが。
この祠の先にある円林寺の光正和尚(同級生)が子供の頃
これを自分のモノにしたかったのでしょう。(ウソ)
祠を越え、一つ目の右の分岐で曲がっていくと。
生口神社への階段が見えてきます。
場所はここ。
「祇園さん」(生口神社)
祇園さんと地元の人には呼ばれる生口神社。
永禄12年(1569年)生口家の発展と武運長久のため勧請したといわれてます。
ちなみにこの辺は大元町と呼ばれてます。
平山画伯がスケッチしたころと季節が違ったようです・・・
個人的にはなぜこんなどこにでもありそうな風景を描いたのか
とも思うのですが、幼少時の頃の遊び場だったからではないかと
推測します。
神社を降り、神社に沿って(左回りでも右回りでも可)階段を登って行くと
向上寺への入り口にたどりつきます。
「向上寺山門入口と石段」
文安元年(1444年)には4代将軍足利義政が300石の朱印を献じ向上寺を祈願所とし、
以後足利家の家紋の使用を許可したので今も山門や仮本堂の軒瓦には足利家の家紋が
使われている。(瀬戸田町史 地理編)
自分も同じ絵をホームページに描いておりますが
ヘボイのでそっとしておいてください(泣)
山門をくぐって街を見下ろすと、すぐ下に万徳寺。
この向上寺の鐘は文禄の役(1592年)で供出後、1599年に作られたものだそうです。
その後は戦争での供出は免れています。
結構高めのいい音がして、確かNHKの行く年来る年にも使われたかと。
残念ながら向上寺は本堂は無し。
本堂が無くてだだっぴろい空き地の分、小さい時にはよく遊ばせてもらいました。
瀬戸田の国宝、三重塔への階段を登ります。
1432年室町時代に建立された三重塔。
塔の建築様式などの見方が私にはわからないので詳しく知りたい方は
日本すきま漫遊記さんで。
(耕三寺、万徳寺、法然寺のことも書かれてあり参考になります)
「瀬戸田 向上寺 三重塔」
もうちょっと後ろから描かれたようです。今では定番中の定番の構図。
小学生の時に写生大会で自分もこの三重塔にトライしたことがありますが
あまりに面倒だったのでその横に生えてた木を描いてお終いにしたことがあります。
ちょっと卑猥な頭に見えるのですが、案内地蔵クン。
モザイクかけるとますます怪しそうなのでとりあえず放置プレイ。
「向上寺三重塔 向上寺山より 大三島・高根島を眺望」
この構図を定番にしたのは平山画伯ではないでしょうか。
今はベル・カントホールの緞帳にもなってます。
ここからの夕日も瀬戸田で自慢できるもののひとつだと思います。
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